復旧から発展

この章では、戦後は終わったと言われる昭和30年代を中心に、国鉄最後の黄金期と言われた時代を描いていきたいと思います。
少し長くなりますが適当に短い章立てをして、読みやすくしたいと思います。 なお、労働問題については、別章で詳しく述べる予定ですので本編では概略を述べるに留めたいと思います。

当時の世相概略

      単独講和か全面講和かでもめた講和条約は、アメリカと日本の利害と思惑が一致し、中国(中華人民共和国)及び旧ソ連(現・ロシア)とは講和条約を結ばないまま、昭和27年には講和条約は発効、日本は一応独立国としての体裁を保つこととなったが、戦火による被害は甚大で所々に焼け跡が無残な姿をさらしていたもので、昭和40年代初頭位まではその片鱗を伺いうことができたものです。
     現在は、コンサートなどで賑わう、大阪城ホール付近もかっては、陸軍工廠が在った所で、昭和40年頃までは、その区画だけが廃墟のようにぽつんと空いていたことを思い出すことが出来ます。
     また、為替レートが1$360円の固定相場に固定されていたため、輸出には有利でしたが、当時は渡航制限も撤廃されておらず、かつ外貨持ち出しも制限されていたため、現在のように誰でもが気軽に海外に遊びに行けるといったことはほとんど不可能でした。
     当時壽屋(現・サントリー)が「トリスを飲んでハワイに行こう」というキャッチフレーズで、アンクルトリスのイラストとともに有名になったのも昭和30年代です、50代以上の方には懐かしい思い出ではないでしょうか。 国鉄に目を向けてみますと、昭和27年以降、本格的に幹線の電化が実施され、昭和27年4月1日に高崎線の大宮〜高崎間が完成、昭和28年には東海道線が名古屋まで電化完成、昭和30年7月に米原まで到達し、全線電化が完成したのは、昭和31年11月19日に完成、EF58形電気機関車が青大将塗装と呼ばれる淡いグリーンに塗られて走ったのもこの頃でした。また同じ時期には、現在は廃止されてしまった、「あさかぜ」号が、戦前の常識を破って、大阪通過の特急列車として運転を開始したことです。
     再び、昭和30年代に話を戻してみますと、昭和30年には鳩山首相は、依然憲法改正論議に積極的であり、押し付けられた憲法を改正すべきとの持論を展開しますが、与野党の反対により消滅していきました。 。

輸送力増強と頓挫

     国鉄では、昭和30年代が最も輝いていた黄金時代と言われており、昭和30年度の輸送量は戦前昭和11年と比較してみると、旅客で3.74倍、貨物はトン数で1.65倍へと著しい増加を示していたが、戦時中に酷使した設備の復興は、戦後のハイパーインフレで、収入から経費を賄うことは難しく、かつ、その後の朝鮮戦争後の物価及び賃金上昇はそれに追い討ちをかけることとなりました。
    更に、追い討ちをかけるように桜木町事故などの大事故で、世論は国鉄の老朽施設や改善不十分な車両などに対して厳しい目を向けるようになりましたた。このため国鉄としても抜本的に改善を図るため第1次5ヶ年計画を策定し、運輸省に提出しました。
    昭和31年8月政府が策定した経済自立5ヶ年計画に呼応して作成されたもので「第1次5ヶ年計画と呼ばれました。同計画は昭和32年度を初年度として
    1. 老朽施設・車両を更新して資産の健全化を図り、輸送の安全を確保する。
    2. 現在の輸送の行き詰まりの打開と無理な輸送の緩和を図り増大する輸送需要に応じるよう輸送力を強化する。
    3. サービス改善と経費節減のため、輸送方式、動力、設備近代化の推進
    を重点事項として、総投資額は当初5,020億円とされたが、好況化でさらなる輸送力のさらなる増強が期待されたことから昭和32年には約6,000億円に増強されました。
    しかし、この計画も、独立採算制の建前から、資金を自前で調達しなくてはならず、3年後には資金不足に陥り再検討を余儀なくされることとなり、進捗率は50%に留まりました。
    また、内容的には老朽施設の更新に追われたので新たな設備投資は大幅に遅延、北陸本線を筆頭に増大する荷物を捌ききれず、滞貨の山となっていき、貨車不足は深刻な問題となっていきました。この第1次5ヶ年計画は概ね老朽化施設の更改が終わったことから、推進率68%の低率ではありましたが、昭和35年度を持って打ち切られ、新たに第2次5ヶ年計画を策定することとなりました。

第2次5ヶ年計画

     第1次5ヶ年計画が、資金不足により頓挫したことから、新たに昭和36年度を初年度とする第2次5ヶ年計画が策定されました、これは、第1次5ヶ年計画が政府策定の経済自立政策に則ったものであったのに対し、今回は池田政権の所得倍増計画に対応したものでした。
     計画の骨子としては、主要幹線の線路増設と輸送方式の近代化、経営の合理化です。
     計画の目玉は、当時、世界の三大馬鹿と言われた新幹線でした。(ちなみに、万里の長城、戦艦大和、新幹線を世界の三大馬鹿と揶揄されていました。)
     このときの総投資額は、9,750億円(うち東海道新幹線は1,735億円)でした、さらに、昭和37年5月の三河島事故(信号無視で安全側線に突っ込んで脱線した機関車に対向の電車が接触し160人が死亡した事故)や、昭和38年11月の鶴見事故により、輸送力の増強がより強く求められました。
     新幹線の建設に際しても、当初は予算を通すために過少な額を提示していたため、当然資金不足に陥ることとなり、世界銀行から8,000万ドル=288億円(年利5.75%)による借款を行ないました。これには当時鉄道局長であった佐藤栄作(後の首相で、岸伸介首相とは兄弟)氏の尽力がありました。
     この計画は、ほぼ予定通り進行し、東海道新幹線の開業をもって一つの区切りとなったのですが、皮肉なことに昭和39年、この年以降は毎年赤字を計上することとなり、昭和62年にJRに改組されるまで黒字に転換することはありませんでした。
     客観的な目で見れば、新幹線を含め国家的事業であるにもかかわらず、国の政策に則って動く若しくは動かざるを得ない国鉄の事情が見えてきます。
     さらに、それを独立採算制の建前から、自前で調達しなくてはならない、さらには地方の発展のためという名目で、収益性の認められないローカル線建設、学生の教育機会均等のために、格安な定期券の発売など、本来であれば運輸省なり建設省、文部省(省名は全て当時)が負担すべき分野まで国鉄が負担を負っていたことは問題だったと言うことを認識していただきたいと思います。
     他に、国鉄では昭和30年代に、地方の財政不足を補う目的で、線路の延長ごとに率を決めて地方交付金なるものを支払っていました。この点は、別の機会に譲りたいと思います。

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