日本国有鉄道私見 鉄道ジャーナリスト、加藤好啓ことblackcatが検証する国鉄時代

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  1. 日本国有鉄道誕生 第1話

  2. 日本国有鉄道の誕生前史
    日本には、かって鉄道省という役所(さらに古くは鉄道院)という役所がありました、戦時中は逓信省(現在の郵政公社の前身) と統合され、運輸逓信省に、さらには運輸省になり、空襲激しくなる中でも、兵員輸送に、また武器弾薬輸送など貨物輸送にと全力を持って、鉄道員の方は、苦労されました。
    特に、昭和も20年になると本土決戦が叫ばれるようになり、鉄道員も軍人とほぼ同等の扱いを受けることなり、組織もそれに見合った形に改変されました。
  3. 日本国有鉄道誕生 第2話

  4. 労働運動の台頭とマッカーサー書簡
    当初、労働運動には寛容であった、GHQでしたが、これを日本共産党が解放運動と感じたことに大きな誤りが生じることとなりました。
    この辺りにつきましては、国鉄とは直接関係ないので割愛させていただきますが、後ほど機会を見つけて論述したいと思います。 すなわち、コミュンテルン(国際共産党)の指示を受けていたこともあり、世界革命近しということで、労働者を指導し、労働運動を活発化させるとともに、非合法活動(銀行襲撃や、爆弾製造など)も平行して行われていました。
  5. 日本国有鉄道誕生 第3話

  6. 国鉄の誕生
    GHQの見解を聞いて頭を悩ませたのは時の政府でした。
    GHQの命令は絶対であり、マッカーサーからの書簡(指示)という事になれば尚更でした。
    前項に書きましたように、政府としては鉄道総局をどうすべきか考えた結果、政府の意向ができるだけ通る、すなわち政府が公共企業体を支配できる体制を考え出しました、これが後々まで国鉄を苦しめる結果となりますので、よく覚えておいてください。
    そこで政府は、3つの案を考え出します。
  7. 労働運動と国鉄 第1話 戦後の労働運動

  8. 戦前にも労働組合は存在しましたが、労働組合の存在は非常に弱いものであり、使用者に対しては請願という形で行われるのが一般的でした。
    実際には戦前にあっても、ストライキなどを実行する会社もありましたが、ことごとく労働者の敗北に終わっていました。
  9. 労働運動と国鉄 第2話 戦後の労働運動

  10. 戦後、労働運動は民主化の旗印の下、合法化されました。
    昭和20年12月には労働組合法(昭和24年6月施行)が公布され、(実際には昭和20年に制定された労働組合法を全部改正すると言う手続きを経て公布施行されました。)
    そこで、雨後のたけのこのように組合は結成、発展していきました、当初はGHQも民主化のためということで、日本共産党(以下「日共」と略す)の活動についても静観を決め込んでいきます。
  11. 労働運動と国鉄 第3話 国労誕生とナショナルセンター発足

  12. 国労の誕生
    統合組織への機運が高まった昭和21年、2月27日には北陸の片山津で「国鉄労働組合総連合会」の結成大会が開催され、同年3月15日、東京の飛行会館で第一回の国鉄総連合中央大会が開催されました。これが国労の前身となる国鉄総連合です。
    この大会で発表された組合員数は50万8,656人で、国鉄全従業員の96%に達しました。
  13. 労働運動と国鉄 第4話 2・1ゼネストの中止

  14. 戦前は、認められていなかった労働者の権利が労働組合法や、労働基本権を確立する労働基準法などが整備されるなかで労働組合運動は急速に発展しました。21年8月には、日本社会党系が中心となった、都道府県単位で結集した日本労働組合総同盟と、共産党が指導する21の産業別労働組合会議が発足したことは前述のとおりですが、その中で目立った行動をとっていたのは、共産党が運動の中心にあった産別会議です。産別会議は民間労組の賃上げや団体協約の締結等の要求を中心とする10月闘争を行いました。この戦いでは東芝を中心として行った電産労協が、電産型賃金と呼ばれる生活給を確保することに成功しています。
  15. 労働運動と国鉄 第5話 2・1ストが残したもの
    2・1ストは、GHQの圧力で中止されたが、その結果は労働運動の再編という形で実現されました。 3月10日には、総同盟・産別会議・国鉄総連合など28組織、446万人が参加した、全国労働連絡協議会(全労連)が結成された、これは当時の組織労働者の84%を包含するものでした。
  16. 労働運動と国鉄 第6話 機関車労組誕生
    かっては、鬼の動労と恐れられ、国鉄末期に労使協調路線に翻意した動労という組合のついて記述していきたいと思います。
     動労は、元々は国労の中にあった機関車乗務の組合員が中心になって昭和25年に分裂した組織であり、当初は「機関車労組」と名乗っていました。
    その後電車列車や気動車列車などが増えてきたことから、名称をより実態にそった「動力車労組」と変更しました。
      何ゆえ、国労から、動労は分離したのでしょうか?
  17. 講和条約と国鉄 第1話 朝鮮戦争の勃発前夜
    占領軍の日本に対する政策は、経済の復元を限度としており、積極的に復興を支援するというものではありませんでした。
     あくまでも、昭和の初め頃程度まで復興することを念頭においたものであり、過度の経済力が一点に集中しないようにすることが主たる目的とされたため、財閥解体や農地解放(これは戦前からも運動としてはあった)等が行われたことは周知のとおりです。
     GHQは、インフレーションを抑制し経済を安定化させるため、ドッジ公使を迎え、収支均衡を保つ超縮小均衡予算を打ち出し、インフレは収束に向かっていきましたが、消費の抑制と産業資金供給の縮小は、体力の弱い中小企業を直撃し、安定恐慌から失業者の増加による社会不安が増大されました。
  18. 講和条約と国鉄 第2話 朝鮮戦争の勃発前夜
    朝鮮戦争と講和条約
    朝鮮戦争は、アメリカとソ連の代理戦争というか、資本主義VS社会主義(マルクスレーニン主義)の戦いとして、朝鮮半島を舞台に繰り広げられたことは皆さん良くご存知のこととは思います。
    先にも記しましたように、この戦争は日本の戦後を大きく軌道修正させるものとなりました。
    終戦当初のGHQの方針は、日本には軍備を一切認めないで、また経済復興もそこそこにという程度にしておくという方針でありました。
  19. 講和条約と国鉄 第3話 講和発効に向けて動く政府と組合運動
    講和条約発効に向けて、政府は労働法規の改定や新しい治安体制を確立すべく行動に出ました。
     特に破壊活動防止法等は、その際たるものでありました。→ 公安審査委員会設置法 公安調査庁設置法 などの制定でした。
    総評では、これら政府の動きに対抗すべく労働法規改悪反対闘争委員会(労闘、以下略す)が組織され、昭和27年には活発な活動が行われ、4月12日には、第一波の労闘が組織されました。
  20. 講和条約と国鉄 第4話 特需景気にわく国鉄
    講和条約発効に向けて、政府は労働法規の改定や新しい治安体制を確立すべく行動に出ました。
     特に破壊活動防止法等は、その際たるものでありました。→ 公安審査委員会設置法 公安調査庁設置法 などの制定でした。
    総評では、これら政府の動きに対抗すべく労働法規改悪反対闘争委員会(労闘、以下略す)が組織され、昭和27年には活発な活動が行われ、4月12日には、第一波の労闘が組織されました。
  21. 国鉄誕生と鉄道事故 第1話 国鉄の復興
    国鉄誕生と鉄道事故 第1回 国... 少し時代を戻して、終戦直後のお話をしたいと思います。この章は概ね昭和20年から昭和25年頃までのお話です。
    戦争で交通機関等も破壊された日本において、最低限必要な旅客・貨物輸送を確保するのは喫緊の課題でした、大量輸送という点では内航海運は有利でしたが、戦争中に徴発されたこと、港の破壊などで早急な復興は無理であり、自動車輸送にあっても早急な改善は無理なことから、必然的に鉄道輸送を早急に復旧させる必要がありました。
  22. 国鉄誕生と鉄道事故 第2話 混乱期の事故
     終戦当時はその疲弊した設備もあいまって多くの事故が発生し、事故の無い日のほうが珍しいと言われるほどの混乱していました。 詳細は、幣ページの昭和20年からを見ていただくとして、多くに事故が発生しています。  これには、戦時中の酷使などで発生したと思われる蒸気機関車のボイラー破裂事故などもあります。
  23. 輸送力増強と国鉄 第1話 輸送力増強
    昭和24年9月、戦後初めての「特急 へいわ」が運転を開始しました。
     戦後の暗い世相の中でたとえ一般庶民には高嶺の花であった特急列車が復活するということは国民に希望を与えるものでした。
     特に、「へいわ」という愛称は、戦後の国民には素直に受入れられる名称では有りましたが、愛称については、改めて公募が行なわれることとなりました。
  24. 輸送力増強と国鉄 第2話 講和条約後の日本
    講和を獲得後日本は、国際的には独立国となりましたが、まだまだ10年戦争による疲弊は続き未だ国民の生活は豊かなものではありませんでした。
    しかし、昭和30年代に入ると、次第に戦後復興と言われた時代は終わり、池田内閣の所得倍増計画に見られるように、より豊かな生活を目指して経済が活発化していきました。
  25. 輸送力増強と国鉄 第3話 貨物輸送の改善
    昭和25年からは、貨物輸送についてもサービス改善が図られ、小口貨物輸送専用のワキ列車が、汐留〜梅田間および吹田〜門司間に設定され、汐留〜門司間で65時間から43時間に大幅に改善されました。
    改善の動機はドッジ・ラインによる縮小経済で貨物輸送が減少したことと、トラック輸送や船舶輸送の復旧が進みサービス改善に迫られたことも原因としてありました。
  26. 輸送力増強と国鉄 第4話 湘南電車に見られる、電車の活躍
    昭和25年3月、東京〜沼津間に80形電車による運転が始まりました。これまでは電車といえば近距離での輸送が常識を覆すものでした。 現在も使われている、オレンジと緑の塗り分けは、茶色若しくは黒しか見たことが無かった人々には驚きの目を持って迎えられました。最も当初は赤味の強いオレンジ色であったため後に修正したと言われています。
  27. 輸送力増強と国鉄 第5話 機関車の再改造と輸送力増強
    戦時中に製作された、EF13、D52などは、通勤形電車の63形同様、戦時設計と言われる構造であったため代用部品や、設計の簡略化などが行なわれており、実際にD52形蒸気機関車では走行中にボイラが爆発して、機関士が死亡するといった事故が発生しています。
  28. 輸送力増強と国鉄 第6話 ディーゼル機関車の開発と頓挫
    戦前からディーゼル機関車並びにディーゼル動車の研究は進められていましたが、太平洋戦争(大東亜戦争)により石油が流通しなくなったことから研究は頓挫していました。
     戦後はローカル線経営における輸送改善の見地から山間部を走るローカル線などを中心にそういった無煙化に関する要請が強くなったこともあり、再び研究が開始されました。
  29. 復旧から発展 第1話 当時の世相概略
    この章では、戦後は終わったと言われる昭和30年代を中心に、国鉄最後の黄金期と言われた時代を描いていきたいと思います。
    少し長くなりますが適当に短い章立てをして、読みやすくしたいと思います。 なお、労働問題については、別章で詳しく述べる予定ですので本編では概略を述べるに留めたいと思います。
  30. 復旧から発展 第2話 輸送力増強と頓挫
    国鉄では、昭和30年代が最も輝いていた黄金時代と言われており、昭和30年度の輸送量は戦前昭和11年と比較してみると、旅客で3.74倍、貨物はトン数で1.65倍へと著しい増加を示していたが、戦時中に酷使した設備の復興は、戦後のハイパーインフレで、収入から経費を賄うことは難しく、かつ、その後の朝鮮戦争後の物価及び賃金上昇はそれに追い討ちをかけることとなりました。
    更に、追い討ちをかけるように桜木町事故などの大事故で、世論は国鉄の老朽施設や改善不十分な車両などに対して厳しい目を向けるようになりましたた。このため国鉄としても抜本的に改善を図るため第1次5ヶ年計画を策定し、運輸省に提出しました。
  31. 復旧から発展 第3話 第2次5ヶ年計画
    第1次5ヶ年計画が、資金不足により頓挫したことから、新たに昭和36年度を初年度とする第2次5ヶ年計画が策定されました、これは、第1次5ヶ年計画が政府策定の経済自立政策に則ったものであったのに対し、今回は池田政権の所得倍増計画に対応したものでした。

  32. 組織改変論議と国鉄 第1話 公社化以前に話題となった民営化
    国鉄の誕生というと、皆さんよくご存知とおもいますが、昭和23年7月22日に発表された、マッカーサー書簡が、その発端であるということを理解しておられると思います。
     この書簡によると、鉄道・塩・アルコール・たばこ等の専売業務は政府事業から公共企業体に組織変更すべしと明記されていました。
     当時は、GHQの命令は絶対であり、それにより当時運輸省の現業機関であった国鉄は、昭和24年6月1日、たばこ・塩・アルコール専売と供に公社化されました。
  33. 組織改変論議と国鉄 第2話 臨時公共企業体合理化審議会の発足
    共企業体発足から5年後の昭和29年、政府は「臨時公共企業体合理化審議会」を発足させました。
     「公共企業体は、公企業の合理化と民主化のための新しい企業形態であるが、その公共的かつ能率的経営を確保するため、なお改善を加える必要があると認められる、これに対する改革要綱を示されたい」と諮問しました。
     これは、占領に伴いスタートした公共企業体を、日本人の目で見直そうということが目的でした。(この内容等につきましては、改めて別の機会にbloigで書かせていただきます。)
  34. 組織改変論議と国鉄 第3話 国鉄公社と民営化
    この議論では、戦前のような国営に戻すのではなく、施行しか6年しか経ていない公社の形態をそのまま踏襲すべきであり、国有鉄道からより公社の意味合いを強く出せる、「日本国有鉄道公社」に改めるべきであるとされました。
    答申には、当時の経過を中心とした説明がついているのでこれを引用すると以下のようになります。
  35. 組織改変論議と国鉄 第4話 風向きが変わってきた民営化
    民営化はせずに、公社としての自主性を認めようという意見がありましたが、やがて世間の風は民営化もよいのではないかという流れに変わりつつありました。
     政府は、昭和29年に臨時公共企業体合理化審議会という組織を設け、公共企業体(公社)の有り方について以下の趣旨で検討する旨指示を出しました。
     「公共企業体は、公企業の合理化と民主化のための新しい企業体であるが、その公共的かつ能率的経営を確保するため、なお改善を加える必要があると認められる。
     これに対する改革要綱を示されたい」と諮問しました。
  36. 組織改変論議と国鉄 第5話 日本国有鉄道経営調査会の発足
    昭和30年、政府は臨時公共企業体合理化審議会の答申を受けて、運輸大臣の諮問機関として『日本国有鉄道経営調査会』を設け、経営形態と財政再建の方法を諮問したのです。
    その背景には、戦時中から戦後にかけての酷使で輸送施設は全体に老朽化し、慢性的な輸送力不足と労使関係の悪化に伴う職場の荒廃などが取り沙汰されていたからです。
  37. 組織改変論議と国鉄 第6話 産業計画会議の勧告
    〈産業計画会議の勧告〉
    公共企業体審議会答申からしばらく経った、昭和32年7月には、民間組織の産業計画会議が「国鉄民営化論」を発表、新聞社・評論家をあげて賛否両論が繰り広げられました。
  38. 組織改変論議と国鉄 第7話 昭和32年監査報告書
    <昭和32年の監査報告書には>
      国鉄監査委員会<委員長は後の国鉄総裁に石田礼介氏長)が発表した、昭和32年度監査報告書の序章で、「国鉄経営理念の確立」を唱え、公共企業体審議会の答申と、産業計画会議の勧告を正面から取り上げていました。
  39. 組織改変論議と国鉄 第8話 組織改変論議と国鉄 第8話 第三次長期計画と輸送力増強
    昭和36年度を初年度とする第2次5ヵ年計画は、輸送量の増加が当初予想を上回り、計画がこれをカバーしきれないことが確実となったほか、資材・用地・賃金等の高騰が当初予想の資金では不足をきたす結果となったうえ、三河島事故の発生で、安全面の投資不足が大きくクローズアップされるなど、昭和37年7月には第2次5ヵ年計画はまたまた修正を余儀なくされました。
  40. ローカル線問題と国鉄 第1話 古くて新しい、ローカル線問題
    古くて新しい、ローカル線問題。(特に昭和30年代を中心として)
    国鉄の経営は昭和20年代の終わり頃から必ずしも好調とは言えず、赤字の年度と運賃値上げによる黒字となる年度を繰り返し、赤字に対する批判が強くなっていきました、当然ローカル線に対する批判は強くなっていきました。
     ただ、当時は鉄道省時代の考え方(あまねく公平なサービスを提供すべきであり、ローカル線も安易に廃止できない・・・といった思いもあったようです。)
  41. ローカル線問題と国鉄 第2話 ローカル線問題と国鉄 第2話 割増運賃制と国鉄運賃
    国鉄では、ローカル線の割増運賃を導入することを検討し、実施することとなりました。
    昭和35年3月22日に開通した指宿枕崎線(山川〜西頴娃間) には割増運賃として基本賃率の1.75倍を課した運賃となっていました。
     この方式は4線区に導入されましたが、翌年に新線建設補助特別措置法が成立するとこの制度は廃止されました。
  42. ローカル線問題と国鉄 第3話 貨物輸送の改善
     ローカル線問題とは直接関係ありませんが、昭和25年からは、貨物輸送についてもサービス改善が図られ、小口貨物輸送専用のワキ列車が、汐留〜梅田間および吹田〜門司間に設定されました。
  43. ローカル線問題と国鉄 第4話 進むローカル線の建設
    ローカル線は、本来儲からない路線であり、積極的に国鉄は敷設したくないと言うのが本音でしたが、政府としては、国鉄を国の組織として置いておきたいと言う思惑も有りました。
     実際、当時の陸上輸送が実質国鉄しかなかったこともあり、全国から鉄道建設の要望があるのですが、連合軍(主にアメリカ軍)は、今後は自動車が中心であり高速道の建設を主体に粉うべきという方針からなかなか認められず、昭和26年に建設が認められたのは、津軽線 青森〜蟹田間、赤穂線 相生〜播州赤穂間、土讃線 土佐久礼〜窪川間だけでした。
  44. 交流電化の夜明け 第1話 商用電化の実用化
    ローカル線は、本来儲からない路線であり、積極的に国鉄は敷設したくないと言うのが本音でしたが、政府としては、国鉄を国の組織として置いておきたいと言う思惑も有りました。
     実際、当時の陸上輸送が実質国鉄しかなかったこともあり、全国から鉄道建設の要望があるのですが、連合軍(主にアメリカ軍)は、今後は自動車が中心であり高速道の建設を主体に粉うべきという方針からなかなか認められず、昭和26年に建設が認められたのは、津軽線 青森〜蟹田間、赤穂線 相生〜播州赤穂間、土讃線 土佐久礼〜窪川間だけでした。
  45. 交流電化の夜明け 第2話 仙山線の成功と北陸本線電化
    このとき導入されたのが、交流整流式電動機を採用した直接式機関車ED44(ED90)形と水銀整流器を用いたED45(ED91)形であり、当時はその性能が未知数であったこともあり、両方式が比較検討されることになりました。
    当時の資料などを参照しますと、技術陣は当初は直接指揮を本命としていたようです、ただし下記にも書きましたように直接式の場合起動時に整流子(ブラシ)から派手に火花を飛ばしながら走るため、 運用ごとにブラシの清掃や交換が必要となったと言われています。
  46. 交流電化の夜明け 第3話 米原田村間を結んだED30
    北陸本線は、交流電化されましたが、米原〜田村間は非電化としてその間を非電化として蒸気機関車(E10)で連絡したことは前述しましたが、昭和昭和38(1963)年12月28日、米原駅〜田村駅間が直流電化され、田村駅の米原寄りにデッドセクションが設置されることとなりったと書かれています。
  47. 交流電化の夜明け 第4話 交流電化の功罪
    写真は485系の電気機器を外した183系仕様ですが、485系は全国の国鉄電化区間(中央東線等一部を除く)に入線できる電車として重宝されました。
    〇交流電化のメリット 交流電化のメリットは、地上設備(変電所)の削減、直流では数キロ置きに設置される変電所が数十キロと長くなるほか、高い電圧を流せるので電流量が減少するため饋電戦を細くすることが可能となり、その結果電柱などの構造物も軽くなると言うメリットがあると言われました。
  48. 高度経済成長と輸送力増強 第1話 輸送力増強
    今日からは、戦後の老朽資産取替と電化・複線化等による輸送力増強のお話を中心に進めて行きたいと思います。
    昭和30年代とはどんな時代だったのか?
    さて、ここで技術的な話から少し外れて、昭和30年代のお話をしてみたいと思います。
  49. 高度経済成長と輸送力増強 第2話 地方納付金と言う名の税金
    国鉄は、独立採算性という建前を取りながらも、国にすれば、鉄道省時代同様に振る舞われる部分がありましたし。
     実際に国鉄もそうした、鉄道省鉄道局のイメージを持っていたのも事実でした。(運輸省よりも国鉄の方が上であるという意識)
     結果的にそうした意識は、結果悪い方向にも進んでしまいました。
  50. 高度経済成長と輸送力増強 第3話 第2次5か年計画と国鉄
    昨日は、地方納付金の話にお話がずれたのですが、その辺のお話はまた改めてお話をさせていただくことになるかと思います。
     再び第一次5か年計画のお話に話題を戻したいと思います。
  51. 高度経済成長と輸送力増強 第4話 昭和36年10月改正と全国特急網の完成
    「もはや戦後ではない」が合言葉となった昭和30年代、国鉄では昭和33年に初めて特急電車「こだま号」により6時間半で東京〜大阪間を走破するようになりました。
    昭和30年代という時代を総括しますと、なべ底不況と言われた景気調整局面は有ったものに、昭和29年から昭和36年12月まで右肩上がりの経済成長を遂げた時代と言えます。
  52. 景気循環と国鉄 第1話 神武景気と鍋底不況と国鉄
    今回は、オリジナル記事として神武景気と鍋底不況と国鉄と言うことで書かせていただきます。
    日本史で聞かれたことはあるかと思いますが、神武景気は昭和29(1954)年 12月から 昭和32(1957)年6月まで 31ヵ月間続いた好景気の俗称ですが、国鉄も、好景気を受けて第1次5か年計画がスタートするのは前述した通りですが、その原資となるべく運賃値上げは当初18%で申請しますが、運輸審議会の答申でその値上げ額は15%に圧縮され、さらに国会審議を経て13%に圧縮されたと言われています。
  53. 景気循環と国鉄 第2話 経済の発展と国鉄
    昨日も書きましたが、朝鮮動乱に伴う外貨の獲得は日本に好景気をもたらすきっかけとなり、昭和29年からは神武景気と呼ばれる好況な状況が作り出され、貨物・旅客ともに需要は増えていく状態でした。
     そんな中で、国鉄では積極的に輸送力の増強に努めるとともに、ディゼルカーによる地方ローカル線の輸送改善なども本格的に行っていきました。
  54. 景気循環と国鉄 第3話 特急あさかぜの誕生
    昭和31年に、「特急あさかぜ」は旧形客車を連ねた編成で誕生します。
    荷物・3等合造車 3等寝台車3両、3等座席車2両、食堂車、2等座席車、2等AB寝台車(個室&開放室)2等C寝台(開放室非冷房)の編成でした。 当初案では、大阪を無視する列車(実際には停車・客扱を行う)として計画され物議をかもしたものでした。
  55. 高速鉄道の可能性を求めて
    本日から、高速鉄道の可能性についてと言う話題でお話を進めて行きたいと思います。
    戦後の輸送量は飛躍的に増加し、経済成長率は戦前の水準を越えたと思われ、昭和32年当時、輸送申込みの60%しか輸送できなかったと、国鉄線の記事では出てきますが、当時は他の輸送機関が殆ど発達しておらず、(飛行機も60人程度の定員で東京〜福岡などは、特急1等運賃で東京〜博多まで行くのとほぼ同じ金額(当時はあえて、航空運賃を高く設定すると言う政策的な部分がありました。)
    利用者の多くは、鉄道に頼らざるを得ない状況でした。
  56. 新性能電車の幕開け 第1話
    本日から、新性能電車の幕開けとということで南海かに分けてお話をさせていただこうと思います。
    しばしお付き合いくださいませ。
    1)今までの常識を変えた湘南電車
    昭和25年に「運行を開始した湘南電車は、今までの電車の常識を覆すこととなりました。
  57. 新性能電車の幕開け 第2話
    引続き、101系のお話を少しだけさせていただく前に、中央線に最初に101系が投入されたのかという経緯を知る必要があるかと思います。
    中央線沿線は、戦後の人口増加が大きかったと言われています。
    いささか乱暴な話ですが、中央線が通過する八王子市の人口を八王子市の統計で見てみますと、上記のグラフに有るように、昭和30(1955)年に大きく増加し、その後昭和40(1965)年までは周囲の町村合併もあったとはいえ人口が爆発的に増加していることが理解していただけると思います。
  58. 新性能電車の幕開け第3話 小田急SE車による高速試験
    本日は、小田急が開発したSE車が、国鉄線を走った頃のお話をしてみたいと思います。
    1)国鉄技術研究所の協力で始まったSE車
    小田急のSE車は、ご存じのとおり小田急が最初に開発した特急専用電車であり、現在も1編成が海老名車両基地(神奈川県海老名市)の専用保管庫に保存されています。
  59. 新性能電車の幕開け第4話 特急電車151系の誕生
    昨日は、小田急の車両を借り入れて高速試験を行ったと言うお話をさせていただきましたが、実は3000系の設計には国鉄の技術研究所がかなり設計に関しては技術協力をしたそうですが、小田急としてもかなり部内で物議は有ったそうです。
  60. 新性能電車の幕開け第5話 特急電車151系の発展
    昨日は、151系電車は大人気で、急きょ増備することになったと言うお話をさせていただきました。
    ここにきて、特急こだまは、2・3等車蚤の編成でありながら冷暖房完備であるのに関わらず、「つばめ・はと」は1等展望車並びに食堂車以外は非冷房では差が付き過ぎることから、「つばめ・はと」をどうするか検討されました、まだ当時は客車にするか電車にするか決まっていなかったのでした。
  61. 新幹線建設と国鉄 第1話 十河信二総裁と阿川弘之
    今回から、何回かに分けて新幹線開業までのお話をさせていただこうと思います。
    新幹線に関しては、戦前の弾丸列車計画まで遡ることができます。
    実際に、丹那トンネルなど一部の区間は建設に着手していましたし、日本坂トンネルのように戦前には完成し、一時期は在来東海道線で利用された区間もあったと言われています。
  62. 新幹線建設と国鉄 第2話 新幹線計画概要と建設基準
    東海道新幹線は、十河総裁と島技師長が推進する形でスタートを切ることになりましたが。
    車両限界等の建設基準等は、昭和36年4月から国鉄部内に設けられた、新幹線建設基準証左委員会で検討されました。
    昭和36年8月には最終決定がなされ、その記事が「交通技術昭和36年10月号」にアップされていましたので、当時の記録を引用しながら簡単に解説させていただきます。
  63. 国鉄VS東武 日光観光客争奪戦 第1話
    世界的観光地日光
    現在でこそ、JR東との相互乗り入れが行われていますが、かつて国鉄時代は国鉄と東武双方が競争していました。
    昭和31年、東武が1700系特急車と呼ばれるロマンスカーを導入、国鉄も負けじと同年10月10日から、準急用気動車として開発したキハ55を投入します。
  64. 国鉄VS東武 日光観光客争奪戦 第2話
    東武を震撼させた157系
    157系の登場が、昭和34年、東武の1720系(DRC)の登場が昭和35年ですから、東武が157系の登場に危機感を持ったのは言うまでもありませんでした。
    東武がどれ程危機感を持っていたかといいますと、昭和31年から製造していた1700系に代えて急遽新しい車両を投入したこと、更に従来車の1700系も、ボディを載せ代えて1720系と同じ仕様にしたことから伺えるとおもいます。
  65. 気動車の発展と開発  戦前の気動車のお話 第1話
    1)戦前はガソリン動車、戦後はディーゼル動車
    戦前の国鉄でも、実は気動車は運用されており、特に地方ローカル線などでは経営の合理化として使われる例がありました。
    戦前の気動車としては、大宮の鉄道博物館に保存されている、キハ41000形(キハ04)やキハ07(キハ42500形)が存在しましたが、戦前はディーゼル機関車ではなく、ガソリンエンジンを搭載した気動車が一般的でした。
  66. 気動車の発展と開発 天然ガス動車のお話 第2話
    今回は、戦後一時的に使われた天然ガス動車のお話をさせていただこうと思います。
    戦後の一時期、新潟県と千葉県で天然ガスが採取できたことから。
    ガソリン不足で休車となっていたキハ42000(後のキハ07)を改造して天然ガスで走れるようにした車両が存在したそうです。
  67. 気動車の発展と開発 電気式気動車試作のお話 第3話
    本日は、戦後の電気式気動車のお話をさせていただこうと思います。
    電気式気動車自体は、戦前キハ43000形式が試作されましたが、戦争の激化により開発は中止、戦後は中間付随車が電車の付随車として飯田線で使われたそうです。
    さて、今回は戦後試作された電気式気動車、キハ44000のお話を中心にさせていただきます。
  68. 気動車の発展と開発 液体式気動車の苦悩 第4話
    本日は、液体式気動車の発展と言うことで綴らせていただこうと思います。
    現在は電車の部品と共用する目的から、鉄道車両では電気式を選択する例も増えていますが、国鉄時代はDMH17エンジンに液体変速機の組み合わせが圧倒的で、昭和43年から量産された181系や同エンジンを積んだ、キハ65等を除けば非電化区間の主役としてそれこそ日本全国走っていました。
  69. 気動車の発展と開発 液体式気動車の苦悩2 第5話
    軽量化された。キハ45000 概要
    液体式気動車として、キハ44500形に試作車をベースにして、前面を貫通構造にしたキハ45000形が、昭和28年10月上旬から随時完成したと記録が残っています。 当初の車両は客車をそのまま気動車に置き換えたような配置でドアのすぐ横まで4人ボックスが並ぶ全クロスシートでした。
  70. 気動車の発展と開発 キハ55系気動車の誕生 第6話
    本日も、国鉄時代の内燃気動車の発達史をアップさせていただきます。
    今回は、キハ55のお話をさせていただこうと思います。
    国鉄では、戦後石油事情が好転したことから、戦後はディーゼル機関搭載の車両が試作され、電気式キハ44000に始まる戦後気動車が幕を開けたことは既に書きましたが、DMH17系エンジンの出力は150 PSその後はエンジンに予燃焼室設けて160 PS、その後180 PSまで引き上げられました、しかし、勾配線区では力不足を露呈してしまい。25‰勾配がある線区には配置しない等の措置が講じられていました。
  71. 気動車の発展と開発 高出力気動車の試作 第7話
    今回は、キハ55の後に試作された高出力気動車、キハ60のお話をさせていただきます。
    昭和31年、キハ55形気動車が試作されましたが、昭和34年には、DD13形機関車に使われているエンジン(500 PS)を横型にした上で出力を低下させ400 PSとした気動車が3両試作されました。
    形式はキハ60とキロ60で、昭和35年1月29日に落成しています。
  72. 気動車の発展と開発 特急用気動車の開発 第8話
    アジア鉄道首脳者会議 がきっかけで始まった特急気動車開発
    特急気動車の開発は、昭和34年から開発がスタートしました。
    昭和31年キハ55により、2エンジン車体と軽量車体により高速の優等列車の可能性が高まったことから、以前から構想はあったようです。当時、日本国有鉄道総裁であった十河信二の提唱で始まった、アジア鉄道首脳者会議 (ARC = Asian Railways Conference)、(昭和33(1958)年に第1回が開催)が再び昭和35年に開催することが決定したこともあり、客車特急はつかり号を気動車に置き換えることで接客サービスの向上を図ることが正式に決定されたのでした。
  73. 気動車の発展と開発 一般用気動車と通勤用気動車 第9話
    液体式気動車の系譜
    戦後の液体式気動車(昭和35年頃までは液圧式)は、キハ44500(称号改正後はキハ15)からスタートした液体式気動車は、昭和29年に製造が開始されるキハ45000(後のキハ17)、さらに派生して2エンジン車とした仕様のキハ44600(後のキハ50試作車を経て)キハ44700(後のキハ51)が誕生、その後準急用としてキハ44800(後のキハ55)が誕生します。

気動車の全国展開と新形エンジンの開発 昭和40年代
新幹線開業と国鉄の赤字
老朽化設備の更新と国鉄
ヨンサントオが残したもの
高速鉄道の可能性を求めて
新幹線騒音訴訟と公共輸送
昭和40年代以降の組織改編論議
夜行列車廃止論と鉄道輸送
臨調VS国鉄以下続編の予定
昭和30年代の奈良機関区

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